学校を、社会を、ある種「ドロップアウト」したとされる人々。その隣に立ち、静かに、けれど情熱を持ってその存在を肯定し続けてきた一人の思想家がいます。
デジタルハリウッド大学名誉教授であり、人材育成のプロフェッショナルでもある渡辺パコ氏。しかし、彼を語る上で欠かせないもう一つの顔は、「小学校6年生から不登校になった娘を持つ父親」という当事者性です。
「周りと同じようにできない自分は、どこか欠けているのではないか」。そんな不安や同調圧力に押しつぶされそうな現代において、パコ氏の言葉は、私たちの喉元に刺さったトゲを溶かすような優しさと、社会の欺瞞を突く鋭さに満ちています。不登校という現象を入り口に、私たちが抱える「生きづらさ」の正体を解き明かしていきましょう。
人間はそもそも「凸凹(でこぼこ)」な存在である
パコ氏は、人間を「金平糖(こんぺいとう)」のようなものだと表現します。金平糖がトゲトゲしているように、人間もまた、一人ひとりが異なる「凸凹」を持って生まれてくるのが自然な姿なのです。
しかし、日本の教育現場や社会は、この凸凹を無理に「丸く」整えようとする病理を抱えています。出っ張っている個性は削り、凹んでいる弱点は「努力」という名のもとに埋めさせようとする。パコ氏は、こうした「丸い人間こそが正解である」という強迫観念が、多様な個性を窒息させていると厳しく指摘します。
ここで興味深いのは、パコ氏が提案する「逆転の発想」です。凸を削って丸くするのではなく、むしろ「凸を増やして、全体として円熟(丸っぽく)見せる」という考え方。個々の尖った部分を否定せず、むしろ増やしていくことで、結果として豊かな存在へと至る――。問題は個人の形にあるのではなく、それを「いびつ」だと断じる私たちの眼差しにあるのです。
「人間が歪(いびつ)なんじゃなくて、人間観が歪なんですよ」
日本の多様性(DEI)は、実は欧米よりも「自然」に進んでいる
近年、ダイバーシティ(多様性)を巡る議論が盛んですが、欧米、特に米国では「反DEI」とも言える激しい対立が表面化しています。しかし、パコ氏の目には、日本社会(特に若い世代)のあり方はもっとしなやかに映っています。
現代の若者たちは、LGBTQなどの多様なアイデンティティに対しても、過度な主張や対立を伴うことなく、「それはそれとして、いいね」とフラットに受け入れる感性を持ち始めています。この「自然な受容」こそが、日本独自の強みではないでしょうか。
古い価値観に縛られた層が、反射的に「普通」を強要しようとすることもあるでしょう。だからこそ、「時代遅れな考えに戻らないよう、皆で緩やかに抑えていく」という社会全体の意志が重要になります。若者が生み出しつつあるこのフラットな空気を守り、後退させないこと。それこそが、あらゆる凸凹が共存できる社会への近道なのです。
不登校は、親が「大人」になるための絶好のチャンスである
我が子が不登校になったとき、多くの親は世間体を気にして、申し訳なさそうな顔で周囲に謝罪してしまいます。パコ氏はこの光景を、「子供自身を見ることよりも、周囲の大人との折り合いを優先してしまっている」と、愛を持って喝破します。
ここでパコ氏が授けてくれる、極めて実践的なアドバイスがあります。それは、「『すみません』を『ありがとう』に書き換える」ことです。
先生がプリントを届けに来てくれたとき、「学校に行けなくてすみません」と謝るのではなく、「気遣ってくれてありがとう」と感謝を伝える。この一言の差は、決定的な違いを生みます。親が謝る姿を見せることは、暗に「お前は悪いことをしている」と子供に告げているのと同じです。感謝を伝えることで、親自身の自尊心を守り、同時に子供を「社会的な罪人」にしないための境界線を引くことができるのです。
「子供の1歳の誕生日は、親の1歳の誕生日。経験値としては子供の1年も親の1年も同じなんです」
子育ては、親自身が育てられるプロセスに他なりません。世間の目から卒業し、目の前の一人の人間と向き合う。不登校という時間は、親が真の「大人」へと脱皮するための、何物にも代えがたいギフトなのです。
日本人がかつて持っていた「個別化教育」の源流、寺子屋に学べ
明治以降の学校制度は、均質な労働者を大量生産するために最適化されてきました。しかし、江戸時代の「寺子屋」に目を向ければ、そこには現代の私たちが理想とする「個別最適な学び」の原点がありました。
寺子屋では、3歳から10代後半までの子供たちが同じ空間に集まり、師匠は一人ひとりの興味や進度に合わせて個別に課題を与えていました。いわば、完全なる個別指導です。現代で提唱されている「個別化教育」は、新しい概念などではなく、日本人がかつて当たり前に実践していた教育の「原点回帰」なのです。
「全員が同じ場所で、同じ内容を、同じペースで学ぶ」という今のスタンダードは、日本の長い歴史から見れば、むしろ特殊で不自然な一時期の姿に過ぎません。不登校というサインは、この規格化されたシステムの限界を、私たちに教えてくれているのではないでしょうか。
「斜めの関係」が孤独な親子を救う
パコ氏が最も危惧するのは、不登校によって親子が家庭の中にポツンと閉じ込められ、社会から「なかったこと」にされてしまう、いわば「座敷わらし状態(座敷牢)」になってしまうことです。
かつての日本社会には、親でも先生でもない第三の大人が介入する「斜めの関係」が豊かに存在していました。民族学的に見れば、若者が親元を離れて地域の大人たちと過ごした「男宿・女宿」などがその典型です。そこでは、「あの子はこれが得意だから」と、血縁を超えた多様な大人が子供の役割を見出し、自尊心を育んでいました。
地域コミュニティが崩壊した現代において、私たちはフリースクールやスポーツのコーチ、近所のユニークな大人など、この「斜めの関係」を意識的に構築しなければなりません。親だけの価値観という狭い檻から子供を救い出し、多様な大人との接点を作る。それが、親子が共に呼吸できる「余白」を生み出すのです。
結論:存在を「なかったこと」にしない社会へ
不登校、失業、あるいは挫折。レールから外れた瞬間、社会はその存在を透明化しようとします。しかし、最大の悲劇は、そこにいる人間を「いないもの」として扱うことにあります。
大切なのは、状況をありのままに、フラットに言葉にすることです。「今日は学校には行かなかったけれど、家でこんな面白いことをしていた」「今は立ち止まって、自分を見つめ直している」。そうした事実を隠さず、お互いの存在を認め合うための「言葉にする力」が、今こそ求められています。
不登校は、社会が押し付ける「丸さ」への静かな抵抗であり、人間が本来の「凸凹」を取り戻すための聖なるプロセスでもあります。
あなたは今日、隣にいる人の、そしてあなた自身の「凸凹」を、そのまま愛でることができますか? 違いを削り合うのではなく、その歪(いびつ)な形を愛おしむことから、新しい社会の風景が始まっていくはずです。
さらに詳しく知りたい方へ
本記事は不登校支援コミュニティ「ハートスクール」のインタビュー動画をAIでまとめたものです。
動画内ではより具体的な話をしておりますので、ご覧いただけたらと思います。
また動画の内容についてAIがまとめたレポートを添付いたします。
不登校支援の一例としてご活用ください。
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